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大阪市北区(旧・大淀区)、中津三丁目。  梅田都心部のすぐ裏手にあって両側から高層ビルが見下ろすここは奇跡的に戦災に遭わず、開発からも免れ、 いまでも長屋と路地が構成する時間の止まった町です。    一度、散策にお越しください。懐かしい風景がここには日常の姿としてあります。      ここにある長屋の一軒を全て手作りで再生して カフェ・アート・イベント・地域コミュニティ・ギャラリースペースを造る計画を進行中です。 (リノベーション期間、2008年3月~7月)   一つのスペースが出来上がる過程そのものも、イベント・ワークショップとして行っています。    興味を持たれた方、是非ご協力をお願いします。詳細は各ログをご覧ください。     【 代表 ・ 椿 (朗読詩人 / "AWC " ALL WORDS COA PROJECT 代表) 】      ★ 改装の見学だけでも大歓迎です!

2008年04月21日

中津の歴史

【中津の歴史】

明治22年4月、市制・町村制が施行された時に、小町村の合併・統合により中津村として発足した。名称の由来は旧中津川(現淀川)の南岸にあったところから。その後明治44年2月、中津町に昇格し、大正14年4月大阪市の第二次市域拡張により東淀川区西成郡中津町となる。
昭和18年4月に大阪市の15区制から22区制への増区により大淀区中津となり、平成元年2月北区との合区により現在の表示となる。

「中津川」
明治末の淀川つけかえ工事で、中津川はそのほとんどが新川(現淀川)の河川敷か廃川とされ、幻の川となっている。今では古地図でしか見られない。

「中津運河」
現淀川の掘削土砂の不要土砂を放棄するための水路として、左岸沿いに開削されたもの。運河のコースは、毛馬閘門から分岐して淀川左岸沿いに中津~海老江を経て伝法まで延長5.9km。運河はその後農業・工業用水路・舟運など幅広く利用されていたが、昭和42~46年の正連寺川利水事業により埋め立てられた。

「大淀区」
淀川左岸に沿って、現在の梅田スカイビル北側から中津・豊崎・本庄・天神橋(7、8丁目のみ)、長柄を通って都島の毛馬水門手前までの東西に長い範囲に大淀区という名称の区が存在し、総面積の過半数は古い木造の下町、戦前の建物も多く残っていた。
昭和50年代後半からの都市開発による移動で人口が急激に減少し、
平成元年2月、北区との合併により消滅した。



Posted by tsubaki at 22:16│Comments(0)中津の歴史
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